ノベツマクナシ

低所得者層にいます

思っていること2つ

気づきに対するアレルギーが出た
インターネットには、あまりにもためになる情報が多すぎる。テンプレ化された見出し、キャッチ、ヘッド画像、翻訳口調の言葉遣い。Noteの新着記事を見てみるといい。自分が公開した日記に付く「いいね」的なモノの通知も、たどれば7割がそういった「日常・世界・人生・社会をより素敵に上向きに生きるための10のヒント」みたいな記事を書いている人だったりする。そういうものに対する反発もあって私は意味のない文章を垂れ流しているわけだけど、当然Noteでそれを求めている人はいない。ましてやそれを面白いだとか、それに対する思いを汲み取ってくれる人はもっといない。それくらい意味と改善と気づきを求めている人で溢れている。損したくない気持ちの裏返し、みたいな言葉をツイートで見たけど、まさにその通りだと思う。いま書いているこの文章も、気づきの物語に組み込まれる要素に満ちていて、そういう意味ではもう地獄だね。私自身、Noteでそういう記事を書いていないというだけであって、ここではまったく同じようなことをするつもりだから。こういう極端なことをしていると頭を強く打ち付けたくなる。

ゲイとしての自分への歩み寄り
私は普段、自分がゲイとして存在することが許される場所、つまりゲイバーでしか同性愛者として生きていないわけで、普段の生活ではカミングアウトだとか彼らに人権をみたいなムーブを出さずにいる。出せたとしても「親族や友達だったらと考えたら、優しくしたいですね」くらいの言葉で精一杯だし、これでも十分異性愛からしたら親LGBT的なものの見方に映るんだろうなと思う。他者に働きかけるって相当エネルギーを使うことだから、声を上げている人に対してはもう足を向けて眠れない。同性愛者であるということが目に見えない特性であることが悔しくなる。「あなたの息子や娘がLGBTじゃないと思い込んでいるんですか?」まで言えたらと妄想するけど、スカッとジャパンでもそんな振る舞い採用されないわな。多分そういう番組でしょ?(自分が嫌う行為と同等に最悪な偏見)そもそもそういう発言が成立するだけの人間じゃないからね。己を罰しがちな兆候が出始めた。まずい。話がとっちらかっているな。

ブログを始めた2012年とは確かに空気が変わったと思う。オネエ系じゃないゲイが出てきたり、著名な人がレズビアンであることを公にしたり、果てにはゲイが主役のドラマまでできている。そういえば私はまだおっさんずラブも、きのう何食べたも観れずにいる。間違いなく私は我が事のようにドラマを見て、自分の人生・生活とのギャップに傷つくはず。ドラマをドラマとして見れるほど幸せじゃない。今のところは。

かつての職場で上の作品が話題に上がったとき「ほんと感動した〜」という言葉を耳にした時「作り物で感動しやがって、幸せじゃないゲイなら目の前にいるぞ」とぶちまけそうになった。彼ら・彼女らに私が幸せじゃない責任を負わせるところだった。あぶね〜!間違いなく異性愛者(主語がでかい)の中にも同じような理由で恋愛ドラマが見られない人がいるし、話題に上がるたびに色々な思いを振り払って「そんなにいいなら見てみようかな」と口にする人がいるのだろう。そう思うと異性愛者だって同じように、いやそれ以上の機会の元、自らの心をすり減らしているんだな。恋愛に関する話をやめるべきだ。いや、自由恋愛を禁止すべきだ。恋愛奉行による独裁国家の誕生だ!!
何の話なんですかね。そうだな。30を迎えてもまだ自分がゲイであることへの窮屈な思いを抱えている。かつてはそれを振り切ろうと「それが全てじゃない」と翻訳記事まで上げたのにな。

 

 

 

 

 

たまには更新しておこう

前置き

数ヶ月おきでここにログインし、なんとなく眺めて別の巣に戻る。みたいな日々を越えようやく更新する気になった。ツイッターやNote、簡単日記など、ありとあらゆる媒体に文字を叩き込んでいる。なんせ今は無職だから、時間だけはある。エントリーしたり返事を待ったりの空き時間を埋めるための作業にしろ、もう少し意識を高めに設定したい気持ちがあって、はてなブログを再び選んだ。最後に更新したの3年前ですって。

かつてここで記事を書いていた頃の私はお金も友達も持たないままネットで時間を消費することでなんとか精神を保っていた。今はもう少し余裕ができつつある。定期的にご飯を食べる友達や、しょうもないLINEメッセージを送りつける友達もできた。曖昧だけどなんとなく人生のペースというものができつつある。それはとても喜ばしい。3年間を埋める言葉が4行ってのはどうなんだ。あと、他の場所でほぼ毎日文章を書いていた甲斐もあり、以前よりもブログ記事を搔き上げるハードルが下がった気がする。素晴らしいね。

このブログをどう使うかについて

日記は別の場所で上げているので、ここでは記事を書く。翻訳なんて出す場所がないからね。とか書いておいて全然記事を上げなかったらダサいよね。

1億3千万総ダイエット王国の歌詞について

渦巻く思いを書ききった名曲 一億三千万総ダイエット王国の歌詞について

アイチューンズの最近再生したプレイリストを眺めると自分の精神状態がわかると思いませんか。そこに折に触れて聴きたくなる曲がポンと入ってきて「あ、自分けっこう辛い思いをしているな」と気づくというか。
私にとってBerryz工房の1億3千万総ダイエット王国はそういう曲です。


Berryz工房『1億3千万総ダイエット王国』Berryz Kobo[130 million Diet-minded Country]) (MV)

マツコ・デラックスも言ってたように、この曲を歌いこなすことができるのは彼女達だけなんですよ。それくらいギリギリな世界観だし、説得力をもたせるだけの力がないといけない。

さて歌詞です。
1番の開始4行でもうだらしないんですよ。起きてすぐメイクする時間配分の上手くいかなさや、胃もたれするほどご飯食べて翌日にダイエットするぞと決意する計画性の無さ。自分のことじゃねえかと思うほど意識が低い。

そしてBメロ、同じフレーズを繰り返す執念と怒りを感じさせる内容で、1番の時点では「えらい皮肉っぽいなぁー」くらいですむんですが、2番になると急に見えてくるモノがあるんですよ。後述します。

そしてサビ前の嘆きと宣誓のような短いCメロ。「1億3千万総ダイエット王国」
タイトルですよ。バカみたいな名前なのに妙に予感めいた重みを増していきます。そう、増え続ける体重のように…。

1番サビ 典型的なダイエットの失敗描写。
食べたから運動しよう、運動したんだから食べとこう
色々試行錯誤しながらも「走った分だけ食べとこ」に落ち着かせるつんく♂の関西っぽさはたまりませんね。それがアイロニーとして活きている。
確実に失敗するであろうダイエット描写の果てに出るのは「楽しい夢を見てたい・未来を信じていたい」という自分へ向けた期待と「心を温めてほしい・優しさでつつんでほしい」という他者への希望です。サビの最後に連呼される「お願い」に複数の側面を持たせています。
「(お願いだから)上手くいって」と「(お願いだから)冷たくしないで」

お、重てえ~~~!!!!!!!!!!

2番の歌詞
ダイエットを始めた結果、寝坊してます。ダメですねぇ~~本当にダメ。
あっさりと次のBメロ以降するあたり、寝坊して急いでる感じがして面白いですね。

1番のBメロとは基本的な部分は一緒ですが、寝坊とダイエットに追い詰められた誰かの必死な姿が見えてきます。取り繕えない状況になって見えてくるのは、誰からも見向きもされない疎外感でした。繰り返されるフレーズに挟まれる「他人事」という言葉は寒々しささえ感じます。混ざりに混ざった怒りと悲しみと寂しさが「1億3千万総ダイエット王国」というフレーズのバカバカしさに溶け、蔑視じみた感情にまで仕上がってます。

サビ
(どうせ)見向きもされないし(どうせ)割り勘だし、食べれるもん食べとこ。こんな状態になってるんですよ。確実にダイエット失敗からのリバウンドくらい行ってるんじゃないか。

しかしながらこの曲のすごいところは最後です。何もうまくいかない悲しさと怒りを歌った曲でありながら、悲しい業で終わらせないために必要なものをそっと置いていくんですよ。つんく♂って本当に凄い。本当に。本当に凄いと思う。

1番のサビで外へ向かった求めは、怒りと悲しみの渦を巡り巡ることで、2番のサビで自分へ向かい「優しい人になりたい・この世の為になりたい」に集約されるのです。

最後に連呼される「お願い」の意味がここに来てわからなくなるのが最高ですね。私は祈りのレベルに来たなと思いました。祈りってそういうもんじゃないですか。祈る内容がなくなって、祈る行為だけが残った時に何かが生まれるというか。だって不安がなくなるってそういうことじゃないですか。ねぇ?

仏教のような円環と業が最後に本来の意味での希望へ向かうところにつんく♂性善説が見えます。誰かを愛すのと同じくらい地球と自分を愛そうというつんく♂の哲学がここに極まっている…。つんく♂ありがとう…。

いやぁ~凄い曲だ。大好き。

 

日記127 13の理由を読んだ

13の理由を読んだ

この作品は自殺した女生徒による告発テープが主人公に届くところから始まる。主人公はそれを聴き彼女がなぜ自殺をすることになったのかを知る。作中で流れる時間はたったの一夜だが、テープの再生パートを主軸に、かつて彼女が存在した痕跡を辿る旅が効果的に挟み込まれていて非常に濃く立体感のある構成になっている。

大人も友達も誰かを助けるポーズは取れても心を救うことは出来ない。自殺について話し合う場ですら、助けを求める人間が自殺について考えていると名乗り上げなければ助けることもできないと結論づけてしまう。とにかく救いがない。というより自殺という結果が確定した時点で救いなどないのだけれど。家庭環境を意図的に省いている、あまりにも共有された秘密がグループの中で閉じられていることなどツッコミどころはあるが、間違いなく面白い本だった。

読み終わって少し経ったのでこの本についてまた考えてみる。
自分がアバズレであるという噂に押しつぶされて死んだ女生徒は、その噂のきっかけを作った人、友達になれなかった人、友達になりたかった人、助けてくれなかった人を告発する形でテープに残している。読み進めていけば行くほど死ぬ直前に作られたもののリアルさが増していく。それは諦めという感情によるもので、私は(怒りも悲しみも喜びも)その感情をもってすれば全て終わらせることができるのを知っている。それで死んでいった人達を知っている。諦めは解放になり、彼女の最後の言葉に繋がっていく。間違いなくバッドエンドなのに、どうしてか悲しみが残らない。きっと登場人物たち(読者である私も)は悲しみを通り過ぎてしまったからだ。生きるということはそういうことなんだろう。常に世界に残されていくというか、時間に追いつこうと繰り返すサマというか。

ゴールデンウィークだしたくさん本を読もう。
そういえばこの本はアメリカのヤングアダルト小説だったんだけど、アメリカのヤングアダルト小説って死についての本多くないか。トリイ・ヘイデンもそういうの書いてたはず。