ノベツマクナシ

低所得者層にいます

仕事を辞め半年かけて自身を作り変えていったこと

仕事をやめてから、どこかのタイミングで友達を作るようになった。私がゲイであることを明かさないままここまで来てしまったけれど、必要以上に嘘をつくことなく会話をするという技術が少しだけ身についたのか、大人として人付き合いを楽しめるようになった。まぁ、お互いの性質(ある種の傾向という意味で)が似ている人が集まったというのが大きいのだけど。

ある日、間食が多いことを友達に告げると、その友達は間食をせずに日々を送っていると言った。いつもならば「んなことできるわけねー」と流してしまうのだけど、私が敬意を持った人がそう言うのであれば、私にも実践できるのかもしれないと思い立ち、同じように間食をやめた。数ヶ月かけて体重が落ち、顔周りの肉があらかた取れるまでに至る。たまにリンゴやドーナツを食べることもあるが、1日のうちに複数のお菓子を食べる日は一度たりともない。チョコレートに至っては3ヶ月近く口にしてないんじゃないだろうか。

痩せると同時に私は、いかに過剰な自省がストレスとなり膨れ上がっていたかを知った。別に暗い気持ちに囚われたからといって、それを塗りつぶすように食べなくたって良いのだと思えるようになった。達成できなかった願いや行動せずにいる後ろめたさ、それぞれが歯車となり自分の中で空転するだけの日々に、自制して痩せるという行動が足され、カチカチと噛み合っていく。自制が自信に、自信が別の継続を産み、別の自信に変わるのだ。

ひとつに私はライフログを取り始めた。
これも私は先人の知恵を借りた。すべきこと、できることを書き出し、バレットジャーナルの要領でチェックしていくのだ。これによって過去の行動が可視化されるようになった。出来なかったことも含めて自分の意思に基づいて行動したという証は、積み上がれば上がるほど強くなる。出来なかったことに対して逃避するのではなく、同じペースを守ることで諦めずに続けることを知った。

そして私は再び英語の勉強を始めた。
読む・書く・話すを中心に勉強を続けている。音読する習慣はたぶん一生続くんだろうなと思っている。声に出して英語を読み上げるのはマントラを唱える行為に近い。速度を持って正確に読むという課題は未だにクリアできていない。これも時間をかけて習得していくんだろう。

もうひとつ、私は絵を描き始めた。例に倣い、法則を知り、手順を知ることは別の要素にも転用できることを実感した。私が引いた線が描きたい絵に近づくにつれて私は明日が楽しみになってきた。

もちろん毎日がそんな気持ちで過ごしているわけではないけれど、親にゲイであることを隠していた日々や、それを意図せず告白させられた後に続く日常の中でこんな気持ちが湧く日がくるだなんて思いもよらなかった。やってみたいと思っていたことに手を出し、習慣となっていくことがこんなにも人生を充足させるだなんて思わなかった。

今週、ようやく私は転職活動を始めた。私なりのやり方で性に合った仕事を見つけようと思う。人の手を借りながら。

 

___とべろんべろんに酔っ払った文章を書いておいてなんなんですけど、いい仕事ありません?年齢31歳のゲイで、TOEICスコア最高850、メーカーの海外窓口として英文事務に従事してた経験あり、英語のメール対応にかけてはもうノープロブレム。翻訳だって出来ちゃいますよ。しかもダイエット成功経験まである。いい仕事があったらメールください。nobetsu.makunashiアットマークgmail.com 

藤波辰爾を性的に消費したことを告白する日記

同性愛にまつわるアレやコレについて考えだすとどんよりとした気持ちになるが、同時にPorn Hubの動画を片っ端から調べたりなどしているので、切っても切れない業のようなものを感じる。

今日、藤波辰爾の画像(マッチョドラゴンを歌ってた頃ではなく、2020年今現在の藤波だ)を保存した時に「ああ、今やばいとこに居るな」と心の何処かで思っていた。

「こんなこと、友達にだって言えない…」みたいな悩みはゲイでなくとも人間ならいくらでも経験してきただろう。私の場合、学生時代の友達は実質0人レベルで疎遠になってしまったし、親だって私がゲイだということを知っている。打ち明けるハードルがなければ楽になるのかと言われたらそうではないのだ。

そう、ゲイの友達がいて、31歳になっても「こんなこと、(親・友達・知り合い)に言えない…みたいな悩みが出てくるのだ。例えば藤波辰巳に欲情して大写しになった画像(トップレスですらない)を保存した上、あまつさえソレを使ったみたいなことは、おいそれとは言えないのだ。だからここに書き留めておこうと思う。

何ヶ月に一回のペースでスーパームーンが来るように、異様に性欲が高まる時がある。もっと正確に言うとストライクゾーンのピントを調節する機能が完全にバカになってしまう時があるのだ。巨大な波が浜辺を攫うかのごとく、理性が無くなってしまう。

重ねて例えるならば、それはすべてが当たりになったルーレット。何かが大量に放出されるのだ。そういう状態にもなると、御年66になる藤波辰爾の写真を見ただけで生唾を飲み込んでしまうなんてこともやぶさかではなくなる。虎になってしまった李徴の気持ちがわかる。トラは成れの果てとなってしまった心情を指していたのだな。

その一方で、安易に他者へ性欲をぶつけず己で昇華する姿勢は見上げだものだなと思う。セックスオフェンダーにもならず、健気に陰茎を握りしめているのだ。きっと違う宇宙の別世界人がその様子を観たら涙さえ見せるのではないだろうか。

心の世界なら辰爾にめちゃくちゃしたり・めちゃくちゃされたりする自由が保証される世界、いつだってそれが当たり前に存在してほしいですね。

思っていること2つ

気づきに対するアレルギーが出た
インターネットには、あまりにもためになる情報が多すぎる。テンプレ化された見出し、キャッチ、ヘッド画像、翻訳口調の言葉遣い。Noteの新着記事を見てみるといい。自分が公開した日記に付く「いいね」的なモノの通知も、たどれば7割がそういった「日常・世界・人生・社会をより素敵に上向きに生きるための10のヒント」みたいな記事を書いている人だったりする。そういうものに対する反発もあって私は意味のない文章を垂れ流しているわけだけど、当然Noteでそれを求めている人はいない。ましてやそれを面白いだとか、それに対する思いを汲み取ってくれる人はもっといない。それくらい意味と改善と気づきを求めている人で溢れている。損したくない気持ちの裏返し、みたいな言葉をツイートで見たけど、まさにその通りだと思う。いま書いているこの文章も、気づきの物語に組み込まれる要素に満ちていて、そういう意味ではもう地獄だね。私自身、Noteでそういう記事を書いていないというだけであって、ここではまったく同じようなことをするつもりだから。こういう極端なことをしていると頭を強く打ち付けたくなる。

ゲイとしての自分への歩み寄り
私は普段、自分がゲイとして存在することが許される場所、つまりゲイバーでしか同性愛者として生きていないわけで、普段の生活ではカミングアウトだとか彼らに人権をみたいなムーブを出さずにいる。出せたとしても「親族や友達だったらと考えたら、優しくしたいですね」くらいの言葉で精一杯だし、これでも十分異性愛からしたら親LGBT的なものの見方に映るんだろうなと思う。他者に働きかけるって相当エネルギーを使うことだから、声を上げている人に対してはもう足を向けて眠れない。同性愛者であるということが目に見えない特性であることが悔しくなる。「あなたの息子や娘がLGBTじゃないと思い込んでいるんですか?」まで言えたらと妄想するけど、スカッとジャパンでもそんな振る舞い採用されないわな。多分そういう番組でしょ?(自分が嫌う行為と同等に最悪な偏見)そもそもそういう発言が成立するだけの人間じゃないからね。己を罰しがちな兆候が出始めた。まずい。話がとっちらかっているな。

ブログを始めた2012年とは確かに空気が変わったと思う。オネエ系じゃないゲイが出てきたり、著名な人がレズビアンであることを公にしたり、果てにはゲイが主役のドラマまでできている。そういえば私はまだおっさんずラブも、きのう何食べたも観れずにいる。間違いなく私は我が事のようにドラマを見て、自分の人生・生活とのギャップに傷つくはず。ドラマをドラマとして見れるほど幸せじゃない。今のところは。

かつての職場で上の作品が話題に上がったとき「ほんと感動した〜」という言葉を耳にした時「作り物で感動しやがって、幸せじゃないゲイなら目の前にいるぞ」とぶちまけそうになった。彼ら・彼女らに私が幸せじゃない責任を負わせるところだった。あぶね〜!間違いなく異性愛者(主語がでかい)の中にも同じような理由で恋愛ドラマが見られない人がいるし、話題に上がるたびに色々な思いを振り払って「そんなにいいなら見てみようかな」と口にする人がいるのだろう。そう思うと異性愛者だって同じように、いやそれ以上の機会の元、自らの心をすり減らしているんだな。恋愛に関する話をやめるべきだ。いや、自由恋愛を禁止すべきだ。恋愛奉行による独裁国家の誕生だ!!
何の話なんですかね。そうだな。30を迎えてもまだ自分がゲイであることへの窮屈な思いを抱えている。かつてはそれを振り切ろうと「それが全てじゃない」と翻訳記事まで上げたのにな。

 

 

 

 

 

たまには更新しておこう

前置き

数ヶ月おきでここにログインし、なんとなく眺めて別の巣に戻る。みたいな日々を越えようやく更新する気になった。ツイッターやNote、簡単日記など、ありとあらゆる媒体に文字を叩き込んでいる。なんせ今は無職だから、時間だけはある。エントリーしたり返事を待ったりの空き時間を埋めるための作業にしろ、もう少し意識を高めに設定したい気持ちがあって、はてなブログを再び選んだ。最後に更新したの3年前ですって。

かつてここで記事を書いていた頃の私はお金も友達も持たないままネットで時間を消費することでなんとか精神を保っていた。今はもう少し余裕ができつつある。定期的にご飯を食べる友達や、しょうもないLINEメッセージを送りつける友達もできた。曖昧だけどなんとなく人生のペースというものができつつある。それはとても喜ばしい。3年間を埋める言葉が4行ってのはどうなんだ。あと、他の場所でほぼ毎日文章を書いていた甲斐もあり、以前よりもブログ記事を搔き上げるハードルが下がった気がする。素晴らしいね。

このブログをどう使うかについて

日記は別の場所で上げているので、ここでは記事を書く。翻訳なんて出す場所がないからね。とか書いておいて全然記事を上げなかったらダサいよね。