ノベツマクナシ

低所得者層にいます

草なぎ剛がトランスジェンダー役で主演!というニュースを見て思ったこと

トランスジェンダーの女性が行き場をなくした少女と心を通わせるって構図、擦られすぎじゃない?

オカマ(ゲイ含む当事者以外が使うととんでもない事になりがちな言葉になったな)もカウントするなら小日向文世が「非・バランス」でやったし、2017年くらいに生田斗真が「僕らが本気で編むときは、」でやったでしょ(生田斗真の方は脚本が特に最悪だった、今でも思い出すだけでとろ火となった怒りが再び活性化する)

トランスジェンダーLGBTという横文字が浸透した中で、まただ。
また、あの◯◯がトランスジェンダー役!!の文句で宣伝している。
なんなんだこれは。

ハル・ベリートランスジェンダー役をやるにあたって炎上して、役を降りるまでに至った経緯を見て居心地の悪さを覚えたことも思い出した。あのときの私はゲイというマイノリティ 属性を持ってしても「ノンケがトランスジェンダー役をやって何が悪いの?」と思っていた。

今は違う。穿った見方だけど、トランスジェンダーを、あの◯◯がトランスジェンダー役!というような使い方として扱うこと自体がもう差別的だと思っている。

例えば歌舞伎や相撲に関しては私も「そういうものだから」という認識で、何となく女人禁制であることに違和感を抑え込むことができし、文化だからしょうがないで済ませている。まぁ土俵に上がる上がらないで議論が起きる/起きたのは正直に言ってせせこましいなと思うけど。

だけど映画はそれらと違う。世界各国に共通のフォーマットとして浸透しているし、馬鹿にできない人数に影響を与えるメディアとして時代と共に変わってきたものという背景もあって「別に変わらなくていいんじゃない?むしろマイノリティにスポットライトが当たるし知ってもらうチャンスじゃん」という感覚だけではもう足りないところにいると感じている。

あけすけに言うならば、偏った像を押し当てるようなスポットライトしか当てられない、ぱっと思い出せるだけで国内で2本も同じような映画があるような厚かましくも恥ずかしい状態で、焼き増しみたいな映画しか作れないのに、よくもまぁスポットライトを当ててあげてる立場でモノ言ってるな!?ってことです。

トランスジェンダーから寄る辺なさを感じ取って感傷的な気持ちになるのは勝手だけど、勝手に可哀想の像に押しやって弱者扱いして涙してるのが気に食わない。

たしかに間違いなく涙を誘うようなものになるし、思わず涙するような作品だってある。それでも、トランスジェンダーやマイノリティは涙を誘うための舞台装置ではないという認識が製作者全員の中で徹底されない限り、このテンプレみたいな映画は作られ続けるのだ。私はそれが健全だとは思えない。

スポットライトを当ててあげているというマスにとって気持ちの良い善意と共に、トランスジェンダーは不運で可哀想で人生でうまくいかないけど健気に頑張っている他人という新たな枠にはめていってるだけじゃん、キツいよ。

同じようなトランスジェンダーの女性が憂いに満ちた表情をたたえながらこちらではないどこか見つめているスチル写真が使われている時点でそうでしょ。そういうものだとしているわけじゃないですか。ねぇ。

さんざんボロカスに言ってるけど、多分見ます。観て泣いた上でボロカスに言うと思います(なぜなら「僕らが本気で編むときは、」以外の映画はしっかり泣いたから)

2丁拳銃

銭湯へ行った。そこへ足を運ぶのは二年ぶりで、あの頃はこんな仕事をしてたな〜だとか、薄給で銭湯を自分を労る贅沢品として楽しんでたな〜などと思い出していた。

風呂から上がり、身支度を整えていると先程私が使ったドライヤーに手をかける中年男性が目に入った。どこか迷惑そうな顔をしながら強風を顔に浴びせている。そのドライヤーは温風を出すために特定のスイッチを押してスライドさせなければいけないのだけど、おじさんはそれに気づかずはてなマークを顔に浮かべて顔をブローしていた。

一目見るだけで普段からドライヤーを使っていないおじさんの仕草が見て取れる。やっとスイッチの仕組みに気づいたおじさんは何を思ったのか、彼の目の前にあるもう一台のドライヤーも手に取り、2丁拳銃の形で頭に温風を当て始めた。台風の中継でも拝めないような表情と共に、次第に重たさに負けていく両腕とそれにつられて頭を垂らしていく姿に私は、中学生だった自分がフラッシュバックしてきた。

当時、私は少ないお小遣いを地元のゲームセンターで消費することに夢中で、ダイエーの最上階へ行っては1プレイ50円の格闘ゲームやUFOキャッチャーなどにお金をつぎ込んでいた。

地元の友達がほぼ全員違う学校へ行っていた背景もあり、一人で遊ぶのが常だったのだけど、当時ずっと憧れていたゲームがあった。銃の形をしたコントローラーで画面に映る敵を打ち倒すシューティングゲームで、2人協力して進めていくゲームがどうしてもやりたかったのだ。

思春期特有のかっこよさへの憧れは捻れに捻れ、何故だか私は200円を投入し一人で二人プレイを選んだ。心は錦と言わんばかりに気持ちよく敵を撃ち殺していたのだけど、結局はドライヤーおじさんよろしく現実世界が持ち合わせる重みにプライドを譲った。ものすごく規模の小さいパエトーンみたいな話だ。

今日ドライヤーに振り回されるおじさんを見て、あの時の、ヒョロヒョロの男子中学生を笑いながら見ていたゲームセンターの店員の気持ちがようやく理解できた(気がする)。

強火で行く

帰りしな、上司に恋人はいるかと尋ねられ(「彼女は?」から始まった)、居ないと返す。

この瞬間私は「さぁ〜〜!面倒くさいこと始まったよ〜〜!」と脳内の警鐘をぶっ叩きながらあらゆるルートを想定し、その面倒臭さにうんざりし、答えるパターンや心構えを全て中途半端に組み立て次の言葉を待った。

「この子とかどう?」と見せられたのはとても美しい外国人で、どうやら上司がご贔屓にしているとのこと。(既婚者なのに)20も歳が離れた女性のことを恋人と形容されるこっちの気持ちにもなってほしい。不倫相手なら紹介すんなよマジで気持ち悪いなと思いながら、美人ですねぇと曖昧にラリーを続ける。何のかんのと理由をつけ、今はそういうことを考えてないというお決まりの感じにもっていくと「もしかしてゲイとか?」と最悪に輪をかけた質問を浴びせられた。

たとえ私が異性愛者だったとしても、自己肯定感が低い低所得者で学歴もねえ男がこのご時世に乗り気で結婚相手を探す気になるわけねえだろ。最後の良心で結婚せずに人生を終わらせようとしてんだ馬鹿野郎、そこにある消化器で頭をボコボコにしてやろうか_などとは言えず、自らをゲイだとカミングアウトもしていない私は卑怯にも「もー止めてくださいよー」と笑い、最後の抵抗として「今はそういう人だってたくさんいるし、友達にもいる、あまりそういうノリで話題にしたくない」という旨を伝えた。「今は」のところに私の卑怯さがにじみ出ている。

その時の会話は流れていき、別れ際に上司から「君は人生経験が人より足りないんだからいろいろ頑張らないとね」と言われた時、仮にもその人の判断で雇われた身として感謝心も持ち合わせていた私は本心で「確かにそうだよなぁ〜」と思ったわけだけど、今になって腹が立ってきたな。

私はわたしとして人生経験を十分積んできたし、それは誰もかれも同じわけじゃないですか。みんなと同じことを同じように経験するのが俗に言う人生経験だと言うならば、それこそ私がする必要だってなくないですか?私以外のみんなでやってりゃいいじゃないですか。ねぇ?いつまで仲良くトイレに行く価値観引きずってんだって話よ。いや、言ってきたそいつ男だけどよぉ!!

今の時点での自分の人生は成功だとはまるっきり思えないけど、それは私が判断すればいいだけで、知りもしねえ第三者が簡単にマイ・クソッタレ・プレシャス・ライフを評価してもいいわけじゃねえのよ。

な〜〜〜んなんですかね!?本当に!ドタマに来るわ。私は私を幸せにする方法たくさん知ってるし、一緒にトイレに行かずとも仲良くしてくれる大事な友達だっているわい。

安全装置が外れ、スケベな目で人をみる瞬間について

美容院を変えた。

友人が毎回良い感じに仕上げてもらっているので教えてもらい、担当まで同じ人にしたのだ。嫌な顔せず教えてくれた友人に頭が上がらない。

先日、その友人とご飯を食べているとき、たまたまその美容院の話になった。シャンプーにかける時間が長い所を引き合いに、太くて大きい手でめちゃくちゃにされたいなどという妄言が飛び出したり、肉感的な身体が最高などと性的な目線で見ていることを隠さずにゲラゲラ笑っていた所、友人より担当のX氏はタトゥーを入れているという情報を知ることとなった。

私はタトゥーを見せている人より、タトゥーを入れていることが何でもなくなった人が好きなので、それだけでブチ上がってしまい、どこにどんな絵が入っているのかを問いただすなどした。

なんというか、良いよね…タトゥーが特別でなくなった状態って、良いよね……。